乾杯!とか、板橋とか。

Team REC


まだこれからすべきこと、しなければいけないことはたくさんあります。
忘れないこと、続けることです。
頑張ろう、日本!

 

全国実業団、決勝が終わったのは16時過ぎ。
帰りの新幹線は18時、広島発を予約していた。

運営デスクの方々から、18時くらいの新幹線なら
まず大丈夫だろうとアドバイスをいただいて予約したのだが、
もう一方の準決勝がもつれにもつれたため、
決勝の開始も遅くなってしまったのだ。

表彰式を終え、バタバタでメダルやらカップやら賞品を梱包。
大きなカップもレプリカカップも賞品も持って帰れないから
コンビニから送り出さなければいけない。

レンタカーも返さなければいけないし、
広島駅付近の渋滞状況次第では間に合わないかもと
覚悟をしつつ、すべてをダッシュでこなす。

応援の方々へのお礼もそこそこに会場あとにする。
バタバタで広島駅へ。

なんとか間に合った。
ようやく一息ついて、車内で乾杯。
kanpai
他のお客様もいるので、小さく乾杯だったが、
とてもウレシい乾杯だった。

その後、駅弁を食べ、全員爆睡。
本当にお疲れ様でした。

 

さて某日、とある用事で板橋に降り立った。
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このあたりはワタクシが幼少時代を過ごしたところ。

というのはウソで、遠い親戚が住んでいて、
夏休み中などに長期で遊びに来ていた街なのだ。

親戚の家は米屋を営んでいた。
いとこ、おじさん、おばさん、おばあちゃん、おじいちゃんもいた。
お店の奥に茶の間があって、そこで皆で食事。
お客さんが来ると食事を中断して、店に出る。

福島県の住宅街に暮らす小学生のワタクシと弟には
東京の商店街の暮らしぶりは異次元。

お店のプラッシーを飲ませてもらったり、
「ご飯食べておいで」とお金をもらい、
向かいの喫茶店で子供達同士でご飯を食べたり、
隣の銭湯に入りに行ったり、すべてが新鮮だった。

そういえば、おじさんは区議会議員だったっけ。
色んなことを次々に思い出した。

今はもう米屋もなく、付き合いも遠くなり、
板橋に行くこともなくなったが、
歩いてすぐの場所だったはずと、
記憶をたぐって行ってみた。

駅前にはこんな場所が。
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近藤勇墓所だって。
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知らなかった。
小学生の頃は歴史なんて興味ないしね。

入ってみた。
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こんな近くにあったなんて。
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親戚の家があった場所を探す。
多分ここだ。
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今はマンションになっているのね。

たしかに40年前、ここに米屋があった。
2階の手すりに寄りかかって、
夕暮れの商店街をぼんやり見てた。

隣にあった銭湯はまだ風呂屋だった。
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昔のままの建物ではないが、同じ商売をしているようだ。
世代が引き継がれているのだろうか。

よく遊びに行った公園へ。
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場所も大きさもそのままだが、きれいに整備されていた。

この公園には、紙芝居屋さんが自転車で来てた。
水飴だったかな、お菓子を買うと紙芝居が見られた。

あの頃は、公園から池袋のビルが見えたっけ。

電車で池袋へ。
東京のデパートってすごいなって思った。
おばあちゃんに天体望遠鏡を買ってもらった。

しばし脳内タイムマシンで昭和40年代にトリップ。
不思議な気分を味わった、板橋の町。

ためブロ

ためブロ

福島県生まれ。 普通の公務員の家に育ち、小〜中学校はバスケットボール部に所属。 強豪校のあまりに厳しい練習とレギュラー争いに嫌気がさし、個人スポーツをやることに。 高校で見つけたのがテニス。 当時まだ硬式テニス部は少なく、進学した高校でもまだ「テニス愛好会」だった。 テニスといえば女子、しかも愛好会という緩そうな雰囲気に惹かれ入部。 しかし、女子はおらず、東北なのでクレーコートが使えるまで、毎日ランニングと素振りの日々。 加えて、素振りをした途端に、先輩に「センスなし」から一刀両断。(笑) そんなテニスとの出会いが、今に至り、テニスで生きているという不思議な人生。 テニスを軸にたくさん勉強させてもらったことを駆使して、 テニス業界、スポーツビジネス界で生きている今現在。 座右の銘は「努力に勝る天才なし」 セミナー講師や研修も得意技。

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