花火とか、井山さんとか。

テニス

帰り道。

ちょうど花火が上がった。
マリンスタジアムかな。
なんにしてもラッキー!
夏だね〜。


さて、またお別れが。

先日、杉並の斎場にはテニス関係者が大集合。

テニスジャーナル誌の初代編集長であり、編集者、ライターの井山夏生さんが逝去された。
闘病されていたのは聞いていたが、とうとう力尽きたというか、天命をまっとうされた。

お別れの場には協会関係、選手関係、メディア関係、たくさんの方々が来られていた。
ワタクシもテニス業界の隅っこの人間としてお別れをして来た。

井山さんと出会ったのは、Team RECが日本リーグに出場した頃。
関口周一プロなどを通じて知り合った。

最初にTeam RECが日本リーグに出場した時には、
井山さんが特集記事を書いてくださった。

その後も展示会や試打会、イベントやトーナメント会場など、
様々な場面でお会いしてはお話をさせていただくようになった。

そして、この書籍発売の時。

関口周一プロの選手生活を井山さんが忖度なく書き綴った、
まさに「テニスプロはつらいよ」を赤裸々に書いた本。
この発刊に向けて、関口プロの写真が欲しいということで、
ワタクシの撮影した写真が表紙になったという次第。
なんとも光栄な思い出の本。

その後もお会いすれば、テニス界のことや、選手たちのことなど、
あれこれお話しをさせていただいた。
少し変わった切り口で業界やテニスを見る井山さんの視点に刺激をもらったこと数多。
とても素敵な方だった。


知り合ったのは十数年前だが、お世話になったのはもっと大昔。
ワタクシがテニスコーチになったばかりの頃、テニスジャーナルが創刊になった。

金ない、実績ない、人脈ない、情報ないのない尽くしのチンピラテニスコーチだったワタクシ。
テニスの理論も教授法もコーチング技術もわからないワタクシ、
テニスジャーナル創刊号を見てぶっ飛んだ。

超高速度カメラで撮影したインパクトの瞬間。
ボールの回転、ストリングのたわみ、ラケットのしなり・・・
あらゆる感覚的な伝説が紐解かれたのがテニスジャーナルだった。
テニスの科学ってこういうことなのか。
テニスの技術ってこうなのね。

その日から、テニスジャーナルを片手に、先輩コーチたちと
お世話になっているテニスショップさんに集まって、
分解写真を見ながらあーでもない、こーでもないと技術論を戦わせた。

ボリス・ベッカーのスライスのフィニッシュはどうしてラケットヘッドが立つのか?
そんなことをお店が閉まるまで話していた。

そんな技術論の中心にはテニスジャーナルがあった。
その編集長が井山さんだったのだ。

千葉で何者でもない若造コーチだったワタクシはそんなことを知る由もないが、
思えば、20代のあの頃から井山さんにはお世話になっていたというか、
育ててもらったのだな。

そんな井山さん、ワタクシより少しだけ年上だけど、そんなに変わらない年齢。
やはり早すぎる。
もっとその鋭い切り口でテニスを語って欲しかった。
残念無念のひと言に尽きる。


井山さんがテニス界に残した功績は大きい。
お別れに来られた方々の顔ぶれを見ればそれは明らか。

まずはゆっくりお休みください。
残った者たちがテニスが盛り上がるように頑張ります。
思えば、ワタクシのコーチの原点をつくっていただいたのだと思う。
ワタクシももう少し頑張ってみます。
ありがとうございました。

ためブロ

福島県生まれ。 普通の公務員の家に育ち、小〜中学校はバスケットボール部に所属。 強豪校のあまりに厳しい練習とレギュラー争いに嫌気がさし、個人スポーツをやることに。 高校で見つけたのがテニス。 当時まだ硬式テニス部は少なく、進学した高校でもまだ「テニス愛好会」だった。 テニスといえば女子、しかも愛好会という緩そうな雰囲気に惹かれ入部。 しかし、女子はおらず、東北なのでクレーコートが使えるまで、毎日ランニングと素振りの日々。 加えて、素振りをした途端に、先輩に「センスなし」から一刀両断。(笑) そんなテニスとの出会いが、今に至り、テニスで生きているという不思議な人生。 テニスを軸にたくさん勉強させてもらったことを駆使して、 テニス業界、スポーツビジネス界で生きている今現在。 座右の銘は「努力に勝る天才なし」 セミナー講師や研修も得意技。

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