PASSとか、懐かしブランドとか。

テニス

全日本選手権は関口プロにパスを出してもらった。
プレーヤーズラウンジに行き、パスを申請。

「カテゴリはなににしますか?」
「所属先ですが、ファミリーでしょうか」
ということで、ファミリーパスをもらったら、
関口プロから「コーチパスにしてください。入れる場所が違うんで」とのこと。

ちょっと恐れ多かったっす。


さて、懐かしい本があった。

テニスの歴史が詰まった本。

その中の広告にこんなページが。

憶えている人、いるかな〜。
BONNY(ボニー)というテニスブランドだ。

イタリアン的な打ち出しをしているが、
実際のところは台湾での製造ラケットだったと思う。
たしか、プロケネックスをつくっていたクンナンの工場生産だったような。

時は1980年代後半。
バブルも終わりかけだが、まだテニス業界は元気だった頃。
様々なラケットブランドが市場を跋扈していた。

ウインブルドン、プロケネックス、スポルディング等々。
メジャーどころのプリンスはグラファイトを9万円で発売。
ウイルソンは世紀の発明、厚ラケのPROFILEをリリース。
加えて、クリスエバート、ジミーコナーズが使用する、
名品PROSTAFFを6万円で発売した。

加えて、1987年に初代のHEAD PRESTIGEがデビューする。
ワタクシはそれまでHEAD GRAPHITE PROを使っていた。
もちろん自腹購入でだ。

そして当然ながら、お金もないのに初代PRESTIGEを
清水の舞台から転げ落ちて購入することになる。

何でかっていうと、バブルとはいえ、戦歴ない、コネない、金ない、実力ないの
無い無い尽くしのペエペエテニスコーチに契約してくれるようなメーカーはなく、
生活費を切り詰めてラケットを自分で買うしかなかったという厳しい現実があったのだ。

まあ、生活費を切り詰めると言っても、
クラブのオーナーさんはシューズを買ってくれたし、
クラブの会員さんたちは毎晩、食事に連れて行ってくれたり、
家に呼んでくれてご飯を食べさせてくれた。

ウェアも彼女が買ってくれたりと、世間の皆さんが応援してくれていたという時代。
相当ワタクシが貧しく見えたのだろうと思う。
実際、交通費も社会保険もなく、年収180万円ポッキリだったから実際貧しかったんだけど。
(でも、好きなことで頑張れて最高に楽しかった)

そんな折、ワタクシの雇用主であるコーチ(社長)が言った。
「BONNYっていうメーカーが立ち上がって、使ってみてって話がきた」

メーカー契約なんて夢のまた夢と思っていたワタクシ。
その話に飛びついた。

といっても、正式な契約もなく、ラケット数本をいただいただけ。
でも、これで契約コーチだよなと自分に言い聞かせてBONNYのラケットを使った。

今思えば、このフレーム、プロケネックスのオープンモールド(フリーの金型)だ。
まあ、そんな2番手以降のブランドだったんだと思う。


そんなBONNYのラケットで練習をしていたある日。
練習相手のサービスを思い切りフォアハンドでリターンした。
クロスに狙ったはずのボールはストレートに飛んで行ってなぜかエースに。

ワタクシの手元にはとてもライトなフィーリング。
手にはラケットのグリップだけが残っていた。
そりゃライトだわ。

ラケットがグリップから折れて、ボールと一緒にスロートから上がすっ飛んでいったのだ。
さすがBONNY。
こりゃ、HEADとは違うわと、あらためて思ったサービスリターンだった。

でも、初めてメーカー契約っぽい夢を見せてくれたBONNYには今も感謝だ。
って、今となってはどこに感謝すれば良いやらだけど。

シューズももらったっけ。
完全にリーボックのパクリだったけど、嬉しかったなぁ。
そんなBONNYブランドである。


ためブロ

ためブロ

福島県生まれ。 普通の公務員の家に育ち、小〜中学校はバスケットボール部に所属。 強豪校のあまりに厳しい練習とレギュラー争いに嫌気がさし、個人スポーツをやることに。 高校で見つけたのがテニス。 当時まだ硬式テニス部は少なく、進学した高校でもまだ「テニス愛好会」だった。 テニスといえば女子、しかも愛好会という緩そうな雰囲気に惹かれ入部。 しかし、女子はおらず、東北なのでクレーコートが使えるまで、毎日ランニングと素振りの日々。 加えて、素振りをした途端に、先輩に「センスなし」から一刀両断。(笑) そんなテニスとの出会いが、今に至り、テニスで生きているという不思議な人生。 テニスを軸にたくさん勉強させてもらったことを駆使して、 テニス業界、スポーツビジネス界で生きている今現在。 座右の銘は「努力に勝る天才なし」 セミナー講師や研修も得意技。

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