ジムニーとか、シューズとか。

テニス

スズキ・ジムニー
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ジムニー、ワタクシも80年代に乗っていた。

2サイクルエンジンでパラパラと軽快な音を立てて、
自転車やテニス用具を積んで仕事へ試合へと大活躍だった。

2サイクルって意外と経済的じゃなかったなぁ。
でもオモチャみたいで楽しいクルマだった。

懐かしいなぁ。
こんないいジムニーじゃなかったけど。

 

さて、昔話。

高校生になって、お金持ちのスポーツと思っていたテニスを始めた。

ラケットやらシューズやらウェアやら、やはり揃えるものが多い。
その中でもシューズは驚くほどに消耗品だった。

それまでやっていたバスケットボールのシューズに比べれば安かったけど、
テニスはその他にウェアもラケットも必要。
アイテム数が違う。

最初のシューズは布製の安いやつ。
今思えば、学校の上履きに毛が生えたような程度のものだ。

それから数足は布製のシューズを履き続けたが、
あっという間に穴が開いてしまう。
やっぱり布製は弱い。

当時、皮製のシューズもあるにはあった。
たしかオニツカタイガー(現アシックス)のフォーティーってモデル。
ホワイトのアッパーにブルーでオニツカラインが入ったモデルだった。

実はそれが欲しかったのだが、1年生は革製シューズを履いてはいけないという
よくわからない暗黙のルールがあったらしく、
誰一人として革製のテニスシューズを履いた1年生はいなかった。

とはいえ、そこは「暗黙」のルール。
つまり決まりじゃないってことで、一緒に入部したアライくんと一緒に
オニツカ・フォーティーを買って部活に履いていった。

誰にも叱られなかった。

正確に言うと、先輩がコートにいなかったのだ。

その頃の部活は、先輩たち、いわゆる一軍メンバーは、
かなり離れた市営のコートを使っていて、
ワタクシたち一年生はほとんどコートの体をなしていない
学校の校庭に取り残されていた。

つまり面倒も見てもらえずの放し飼い。
先輩たちから命令されて、
学校からあてがわれたスペースに自分たちでコートを作った。

TVドラマ「青が散る」の第一回そのままに
校庭を掘り返し、土を入れ、馴らし、ラインを引き、ネットを張った。

当然、フェンスはない。
アウトボールは果てし無く転がって行って、
校庭横の川に落ちるか、弓道場に入ってしまうかだ。(危ないわ!)

だから全速力で拾いに行く。
これでダッシュ力が養われたという話も。

そんなコートだから、先輩たちのメインコートにはならなず、
取り残され状態は変わらずだった。

先輩たちに文句も言われることもなく、
凸凹の自分たちでつくったテニスコートで、
環境はいまいちながら好きにテニスができたのだ。

ある意味、見放されたワタクシたちはやりたい放題。
先輩たちはこんなコートに見向きもしないから、
朝練、昼休み練、そして放課後とボール打ち放題。

結果的に先輩のコートに連れて行かれた選抜組の1年生よりも練習が出来、
いつの間にか技術的にも追いついていたという変な現象に。

あ、シューズの話だった。
続きはまた今度。

ためブロ

ためブロ

福島県生まれ。 普通の公務員の家に育ち、小〜中学校はバスケットボール部に所属。 強豪校のあまりに厳しい練習とレギュラー争いに嫌気がさし、個人スポーツをやることに。 高校で見つけたのがテニス。 当時まだ硬式テニス部は少なく、進学した高校でもまだ「テニス愛好会」だった。 テニスといえば女子、しかも愛好会という緩そうな雰囲気に惹かれ入部。 しかし、女子はおらず、東北なのでクレーコートが使えるまで、毎日ランニングと素振りの日々。 加えて、素振りをした途端に、先輩に「センスなし」から一刀両断。(笑) そんなテニスとの出会いが、今に至り、テニスで生きているという不思議な人生。 テニスを軸にたくさん勉強させてもらったことを駆使して、 テニス業界、スポーツビジネス界で生きている今現在。 座右の銘は「努力に勝る天才なし」 セミナー講師や研修も得意技。

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