バスボートのプロペラ。
これだけで、何と10万円オーバー!
アホみたいな遊びだよね。
エンジンは復活したけど、ちょっとセッティングが合わない気が。
気安く買える値段じゃないのが泣けるぜ。
さて、子供は育てた通りに育つっていうか、なんつうか。
仕事人としてもあるところまでは、上司の鏡写しだったりする。
考えてみたら、これまでお世話になった上司にたくさんの影響を受けてきた。
社会人になって最初についた上司は、昭和のサラリーマンって感じの人だった。
会社は今や一部上場の大手スポーツクラブチェーン。
その本部勤務だった。
上司が仕事が出来たのかどうかは知らない。
新聞社から転職で入ったと聞いた。
部長だったから、きっとデキる人だったんだろう。
何故に新入社員のワタクシの直の上司が部長だったのかは分からないけど、
とにかく毎日、その上司と一緒が社会人のスタートだった。
毎朝、スーツを着て、満員電車に揺られ有楽町へ。
銀座のオフィスに出勤した。
当時は満員の総武線に揺られるだけで、かなりのエネルギーを持っていかれたっけ。
で、その部長に指示された仕事をする。
入社したてだから、大した仕事は出来ない。
各所から送られてくるデータを整理したり、口座引き落とし書面を作成して、銀行に持って行ったり。
正直、アルバイトしながら、思い切り遊び倒してきたワタクシにはツマラナイ仕事だった。
あとはフィットネスインストラクターさんの管理。
管理といったって、バリバリ体育会気質のインストラクターのお姉さんたちには、
新卒の坊やなんて眼中に無いから、相手にされなかった。
毎日、昼になると部長が「飯食いに行こう」と誘う。
いや、誘ってくれる。
その日によって、中華料理屋とか洋食とか。
で、必ず瓶ビールを注文する。
そしてワタクシにも注ぐ。
仕方がないから飲む。
当時のワタクシはそんなにお酒に強くなかったので、顔に出る。
会社に戻ると、経理のおばさんが、「ああ、また飲まされたね〜」という微笑みをくれた。
部長が出かける先にはいつも同行した。
そして、常に「仕事とは」的な話をされた。
夜は「ちょっと飲んでいくか」と、居酒屋に連れていかれた。
ビールを飲みながら、「仕事ってのはさぁ」という話を聞く。
居酒屋を出ると、「もう一軒いくか」と、スナックに連れて行かれた。
そこで上司のカラオケを聞くのだ。
ようやく店を出る。
部長はタクシーを拾う。
「乗れ」と言われる。
帰る方向が一緒なのだ。
しかも部長の家は、ワタクシの家の先。
つまり最後の最後まで一緒ってことだ。
酔いも回って気持ち悪いままにベッドに倒れこむ。
そしてまた朝が来て、ネクタイを締めて満員電車に。
辛かった。
毎日、午後になると、部長の誘いをどう断ろうかって考えていた。
そして、はやくひとりで動けるようになりたいと。
ある日の昼、トイレに行ったら、真っ赤な血尿が出た。
それを見て、会社を辞めようと思った。
やりたいことをやろうと思った。
テニスをやろうと決めた。
退職を申し出ると、部長は大反対だった。
ひとつの理由は、叔父の口利きで入ったということもあったと思う。
預かった甥っ子を辞めさせたとあっては・・・との思いもあったのだろう。
それでも退職をした。
皆さんが送別会をしてくれた。
その席でも部長は「俺は認めない」と言っていた。
これが社会人最初の上司だった。
今思うと、たぶん一所懸命に面倒をみてくれたんだと思う。
部長があれほど連れて回るのはワタクシだけだったらしい。
事務方の女性スッタフの皆さんからも、「期待してるみたいよ」と言われた。
食事もお酒も全部ご馳走になった。
タクシーもだ。
そしていつも仕事の話をしてくれたのは、はやく育てたいと思ってのことだったのだろう。
しかし、当時はとにかくしんどかった。
このままだと身体か心が壊れると思った。
だから逃げ出した。
面倒を見る、育てる。
そういう立場になって、塩梅ってつくづく難しいなと思う。
基本的にワタクシはベタベタしないタイプの上司だ。
食事もお酒もほとんど誘わない。
むしろ、一切断っていた。
忘年会すら行かなかった。
上司と飲んで楽しいわけないじゃん。
こっちが誘って、部下に断る理由を考えさせるのが嫌だった。
あの頃のトラウマである。
面倒を見る、どういうふうに?
距離感は?
うーん、とても難しい。
あの時の部長の対応は、今ならほぼすべてパワハラだ。
昔もダメな気がするけど、表現方法と距離感を取るのが上手じゃなかったんだろうなと思う。
色んな意味で感謝はしている。
今でも下にはつきたくないけど。
反面教師的な影響が大半だけど、部下への接し方を学ばせてもらった。
とにかく影響を受けた上司のひとりではある。
出会えたことには感謝である。
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