パスタとか、出世って?その2とか。

テニス


どこかで食べたランチ。

チーズなんとかパスタ。
めっちゃ美味しかった。名前は忘れたけど。

子供の頃には存在しなかった食べ物が今はたくさんある。
よく考えたら、生まれた時って戦争終わってから20年くらいしか経ってないんだもんね。
そりゃ昔の写真、ランニングシャツ着てるわけだわ。(苦笑)
何の話だ。


さて、出世ってどうなの?って話の続き。


転職してスクール運営会社に入ったはいいけど、
自分の意見がまったく通らないという事態に焦るワタクシ。
「このままではテニススクールという業態がダメになる」
って、何様?って感じだけど、若かったのでそこはお許しを。

とりあえずエラくならないと何もできないぞと思った。

そこから、会社に様々な提案をし続けた。
某航空会社、有名テーマパーク、一流ホテルの接遇マニュアルを何とか手に入れた。
某アパレルブランドの理念研修資料、某住宅会社の営業マニュアルなど、
生の企業教育の資料を手に入れ、たくさんの書籍を読み漁り、
これからのテニススクールの運営マニュアルを作った。

今読み返すと、そのマニュアルも若さゆえの粗野な勢いと
思いだけの稚拙なものなのだが、あの時は本気で(生意気にも)
「これからのテニススクールをつくる」と思って書いたものだった。

そんな提案続けるうちになのか、もともと会社のトップも
将来に向けそういう方向性を持っていたのか、徐々に責任を持たせてもらい、
ほどなくワタクシは「スクール運営課・課長」という、
社員の中で一番上のポジションをいただいた。


さあ、ここから改革だ。
CS、ES、サービス、ホスピタリティ・・・未来のテニススクールに向けて
社員の先輩方に説いて回ってみた。
結果、変わるのには多くの時間を要した。
変わらない先輩社員もいた。
退職してしまった先輩もいた。

「コートのフェルト掃除したら、生徒何人増えるの?」
と笑いながら言った先輩の担当事業所に毎朝行ってインドアコートの掃除をした。
休みの日も朝だけは行って掃除をした。
半年、休みなくそれを続けた。

半年後、先輩に言った。
「きれいなコートだと気持ちよくテニスできますよね。明日からお願いします」
有無を言わさずだけど、やっていただいた。

そんな行動が正しいかはわからない。
きっと嫌な年下上司だったと思う。
だけど、そうしないと聞いてくれないし、動いてくれなかった。

そうして少しずつ変わっていったのは事実。
小さくだけど前に進んでいる実感はあった。
一番年下のペエペエのままだったら、何も変わらなかったと思う。


「正しいことをやるためには偉くなれ。青島」
といかりや長介が言っていたが、それは真理だと思う。
そういう意味では、ワタクシは上に立ちたかったし、出世しなければと思った。

出世は目的ではなく、手段だった。
何かを成すために「時間をかけないですむ」「影響力を行使でできる」ための手段だった。


社内での競争に勝つとか、上に気に入られて偉くなろうなんてことは思わなかったし、
今もそういう意識はあまりない。
出世がゴールなら、もっとイエスマンでうまく渡り歩いていく。
「それは違うのでは?」なんて余計な事は言わない。(苦笑)

「出世をしたい」のなら上手いやり方もあるのかもしれないが、
それは上手くできないし、やろうとも思わない。
(もう少し上手くやれよと思うこともあるけど)

ポジションはやってきたことの結果で良い。
力もないのに上に立っても仕方がない。

ただ、あの踊る大捜査線のセリフは真理だなと思う。

正しいことをするために上に行く。
上に行って正しいことをする。
正しく頑張った仕事の結果、ポジションがついてくる。

出世ってそういうものだと思いたい。
青臭いっすか?

ためブロ

ためブロ

福島県生まれ。 普通の公務員の家に育ち、小〜中学校はバスケットボール部に所属。 強豪校のあまりに厳しい練習とレギュラー争いに嫌気がさし、個人スポーツをやることに。 高校で見つけたのがテニス。 当時まだ硬式テニス部は少なく、進学した高校でもまだ「テニス愛好会」だった。 テニスといえば女子、しかも愛好会という緩そうな雰囲気に惹かれ入部。 しかし、女子はおらず、東北なのでクレーコートが使えるまで、毎日ランニングと素振りの日々。 加えて、素振りをした途端に、先輩に「センスなし」から一刀両断。(笑) そんなテニスとの出会いが、今に至り、テニスで生きているという不思議な人生。 テニスを軸にたくさん勉強させてもらったことを駆使して、 テニス業界、スポーツビジネス界で生きている今現在。 座右の銘は「努力に勝る天才なし」 セミナー講師や研修も得意技。

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